里田まい「車出し」発言に思う。少年野球当番の正体は“心の貧しさ”?

少年野球の車出しで子供たちの様子をバックミラー越しに見守る父親(生成AIによるイメージ) チーム運営の知恵袋

里田まい流「脱・野球当番」の議論で見落とされがちな本質。未経験パパが感じた「車出し」の本当の価値と、親が子供に見せるべき背中。

少年野球の保護者、特にパパたちの間で、ある話題が持ちきりになっています。
それは、タレントの里田まいさんが発信した「少年野球の当番・車出し」に関する提言です。

「誰かだけが頑張るのは違う」
「できる人がやる、では限界がある」

この言葉に、首がもげるほど頷いたパパもいれば、「そうは言っても現実は…」と溜息をついたパパもいるでしょう。
特に、野球未経験でチームに入ったばかりのパパにとって、「車出し」や「当番」は、技術指導以上に重くのしかかるプレッシャーかもしれません。

「車が汚れるのが嫌だ」
「休日の時間が奪われる」
「事故の責任が怖い」

ネットを見れば、そんなネガティブな意見ばかりが溢れています。メディアもこぞって「ブラックPTA」「親の負担地獄」と書き立てます。

でも、ちょっと待ってください。
私は、野球未経験のパパとして息子の少年野球に6年間付き合ってきましたが、ぶっちゃけ「車出しが負担だ」と思ったことは、ほとんどありません。

「綺麗事言うな!」と怒られるかもしれません。
でも、これは紛れもない本音なんです。

なぜ私がそう感じたのか。
そして、今議論されている「当番問題」において、多くの大人が見落としている「決定的な欠落」とは何なのか。

今日は、里田まいさんのニュースをきっかけに、少し耳の痛い話も含めて、「親の損得勘定」と「感謝の欠如」について、私の実体験を包み隠さずお話ししたいと思います。

記事の筆者が語る、少年野球の車出し当番にまつわる「ここだけの話」。里田まいさんのニュースをきっかけに考える、親としての在り方。

※AI生成による音声コンテンツにて、発音や読み方に違和感ございますが、ご了承ねがいます。


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  1. 話題の「車出しルール」議論。なぜこれほどまでに親たちは疲弊しているのか?
    1. 里田まいさんの発信が突いた核心。「誰かだけが頑張る」不公平感の正体
    2. 「当番=ブラック」という風潮。メディアが煽るネガティブなレッテル貼りへの違和感
    3. そもそも「子供の野球」は誰のため? 議論の中で置き去りにされる子供たちの視点
  2. ぶっちゃけ、私は「車出し」が負担ではなかった。未経験パパがハンドルを握り続けた理由
    1. 「ついで」の精神が生む余裕。息子の成長を一番近くで見られる特等席としての車内
    2. 補欠でも声を出す息子、悔し泣きするチームメイト。グラウンドでは見えない「隙間のドラマ」
    3. 「やってあげている」という驕り(おごり)。損得勘定で動く親が失っているもの
  3. 許せなかったのは「負担」ではない。「当たり前」を享受する親子に欠けている決定的なもの
    1. 「ありがとうございます」が言えない子供、言わせない親。車内で目撃した礼儀の格差
    2. ドロドロのスパイクと放置された荷物。「他人の車」への想像力が欠如した振る舞い
    3. 親の欺瞞(ぎまん)。「お世話になります」の一言さえあれば、ルールなんてなくても回る現実
  4. SNSで愚痴り、メディアで晒す。その姿を子供は黙って見ている
    1. 陰口と不平不満のオンパレード。大人が楽しんでいない野球を、子供が楽しめるはずがない
    2. 「できない時はお願いする」がなぜ言えない? 見栄とプライドが招く自縄自縛
    3. 私が息子に口を酸っぱくして教えた「乗せてもらう時」の鉄の掟とマナー
  5. 未経験パパだからこそ伝えたい。車出しは単なる送迎ではなく「動く社会科教室」だ
    1. 車内での会話は宝物。技術指導はできなくても「人としての振る舞い」は教えられる
    2. 感謝の連鎖を作る。自分ができる時は全力でやり、できない時は素直に頭を下げる潔さ
    3. 制度改革よりも「意識改革」。トラブルゼロのチームが持っている「お互い様」の空気感
  6. まとめ:当番を「損」と捉えるか、「投資」と捉えるか。親の背中が子供の未来を作る

話題の「車出しルール」議論。なぜこれほどまでに親たちは疲弊しているのか?

まず、今回の里田まいさんの発言がなぜこれほど大きな波紋を呼んだのか。それは、多くの保護者が潜在的に抱えていた「不公平感」という爆弾のスイッチを押したからです。

里田まいさんの発信が突いた核心。「誰かだけが頑張る」不公平感の正体

里田さんは、メジャーリーグ(MLB)の文化も知っています。アメリカでは基本的に「親は観るだけ」。送迎も各自が基本で、日本のようにお茶当番や組織的な配車係が存在しないケースが多々あります。
その視点から見れば、日本の少年野球のシステムは「過剰な奉仕」に見えることもあるでしょう。

しかし、彼女が指摘した本質は「制度の有無」ではなく、「特定の善意ある人に負担が偏りすぎる構造」への警鐘です。

  • 毎回、当たり前のように車を出してくれるAさん。
  • 「仕事が忙しい」と言って一度も顔を出さないBさん。

この両者が、同じ「チームの保護者」として存在している。AさんがBさんの子供を乗せて遠征先まで走り、ガソリン代も自腹(または微々たる交通費のみ)、車内は泥だらけ。それなのにBさんからは「当たり前」のような顔をされる。

ここにあるのは、労力の負担よりも、「心の負担」です。
「なぜ私ばかり?」という不公平感が、親たちの心を蝕んでいるのです。

「当番=ブラック」という風潮。メディアが煽るネガティブなレッテル貼りへの違和感

最近のメディアやSNSは、この問題を少し単純化しすぎているように感じます。
「少年野球の当番=悪」「親の時間を奪うブラックな慣習」というレッテル貼りです。

確かに、昭和の時代から続く「母親が一日中お茶を配る」といった非効率な慣習は変えるべきです。全日本軟式野球連盟やスポーツ庁も、時代の変化に合わせて保護者の負担軽減を呼びかけています。
全日本軟式野球連盟 / 学童野球の運営に関する指針や保護者の関わり方についての最新のガイドラインを参照。

しかし、すべての活動を「負担」と切り捨てて、「お金で解決すればいい」「外部委託すればいい」と短絡的に結論づけることには、私は少し違和感を覚えます。
なぜなら、そこには「子供たちの視点」が抜け落ちているからです。

そもそも「子供の野球」は誰のため? 議論の中で置き去りにされる子供たちの視点

親たちが「車出しのルールがどうだ」「ガソリン代がどうだ」と揉めている姿を、子供たちはどう見ているでしょうか。
自分たちが大好きな野球をするために、親たちが眉間に皺を寄せて喧嘩している。
「僕たちのせいで、お父さんとお母さんが大変そうだ」

そんな空気の中で、子供たちが心から野球を楽しめるでしょうか?
私は、車出しや当番の問題を「大人の都合」だけで語るべきではないと思っています。
「負担を減らす」ことは手段であって、目的はあくまで「子供たちが気持ちよく野球ができる環境を作ること」はずです。

その目的を見失い、親同士の権利主張合戦になってしまっては本末転倒です。
私が「車出しは負担じゃなかった」と言えるのは、この視点を常に持っていたからかもしれません。

保護者の陰口と純粋な応援の対比(生成AIによるイメージ)
不満を言う親と、成長を見守る親。子供はどちらも見ている(生成AIによるイメージ)

ぶっちゃけ、私は「車出し」が負担ではなかった。未経験パパがハンドルを握り続けた理由

私は野球経験がありません。キャッチボールも下手ですし、技術的なアドバイスなんて何一つできません。
だからこそ、私にとって「車出し」は、チームに貢献できる数少ない「自分の居場所」でもありました。

でも、それ以上に、私があえてハンドルを握り続けたのには、明確な理由があります。

「ついで」の精神が生む余裕。息子の成長を一番近くで見られる特等席としての車内

私はこう考えていました。
「どうせ息子の試合は見に行くんだ。自分ひとりで乗っても、友達を3人乗せても、走る道も時間も変わらない。だったら、乗せていけばいいじゃないか」

これぞ、究極の「ついで」精神です。
この「ついで」という感覚があると、不思議と精神的な負担は消えます。「やらされている」のではなく、「自分が行くついでに乗せている」という主体的な行動になるからです。

そして、その見返りは想像以上に大きなものでした。
車内は、グラウンドでは見せない子供たちの素顔が見られる「特等席」なんです。

「あー、今日の監督の話、長かったなー」
「お前、さっきのエラーやばかったぞ(笑)」
「今日の試合後のアイス、何にする?」

親やコーチの前では見せない、子供同士の等身大の会話。
「〇〇君は意外とひょうきんだな」「息子はチームでこういう立ち位置なのか」
そんな発見が毎回ありました。これは、家で待っているだけでは絶対に見られない景色です。

補欠でも声を出す息子、悔し泣きするチームメイト。グラウンドでは見えない「隙間のドラマ」

ある日、試合で負けた帰りの車内。
いつもはお調子者のチームメイトが、後部座席で押し黙って、静かに涙を流していたことがありました。
私の息子はずっと補欠でしたが、その日はベンチで誰よりも大きな声を出して応援していました。

「お前、今日ベンチですごい声出てたな。パパ、聞こえてたぞ」
私が運転席からそう声をかけると、息子は少し照れくさそうに、でも誇らしげに「うん」と答えました。
泣いている子には、何も言わず、ただ静かに好きな音楽をかけてあげる。

そんな「隙間のドラマ」に立ち会えること。
補欠の息子の数少ない輝きを見逃さずに拾ってあげられること。
これは、車出しを担当した親だけの特権です。これを「負担」と呼ぶには、あまりにも惜しい時間だと私は思っていました。

「やってあげている」という驕り(おごり)。損得勘定で動く親が失っているもの

逆に、車出しを苦痛に感じる親の多くは、どこかで「損得勘定」をしているのではないでしょうか。

「私は今日で3回も車を出した。あの人は0回だ。損している」
「ガソリン代だってバカにならない。割に合わない」
「せっかく乗せてやってるのに」

この「やってあげている」という上から目線の感情が芽生えた瞬間、すべての行為は「苦役」に変わります。
見返りを求めているからです。

でも、考えてみてください。私たちはビジネスで送迎サービスをしているわけではありません。
わが子の、そしてわが子の仲間たちの成長を見守る活動です。
そこに「損得」を持ち込むから、話がややこしくなる。

「そんなの綺麗事だ。現実に負担に差があるのは許せない」
そう思う気持ちもわかります。私も聖人君子ではありません。
実は、私が車出しをしていて「これだけは許せない」と思った瞬間が、過去に何度かありました。
それは、「回数の多さ」でも「ガソリン代」でもありません。

もっと根源的な、「人としての在り方」の問題でした。

車出しをしてくれた保護者に深々と頭を下げる野球少年(生成AIによるイメージ)
「当たり前」ではない。感謝を伝えることの大切さ(生成AIによるイメージ)

許せなかったのは「負担」ではない。「当たり前」を享受する親子に欠けている決定的なもの

私が「もう車を出したくないかも」と心が折れそうになった時。
それは、相手の親や子供たちからの「礼儀の欠如」を感じた時でした。

「ありがとうございます」が言えない子供、言わせない親。車内で目撃した礼儀の格差

ある時、数人の子供を乗せて家の前まで送り届けた時のことです。
スライドドアが開き、子供が降ります。
「じゃあねー!」

それだけです。
運転席にいる私には目もくれず、友達に手を振って家に入っていく。
迎えに出てきた親御さんも、こちらに軽く会釈はするものの、スマホを見ながら子供と話し始めている。

「ありがとうございます」がない。

たった一言です。たった7文字。
これがあるかないかで、こちらの気持ちは天と地ほど変わります。
「乗せてもらって当たり前」という態度。まるで無料のタクシーか何かだと思っているような空気。

これを感じた時、私は初めて「車出し」を負担だと感じました。
「お世話してやっている」と思いたくはないけれど、相手に「お世話になっている」という感覚がない時、関係性は破綻します。

ドロドロのスパイクと放置された荷物。「他人の車」への想像力が欠如した振る舞い

礼儀のなさは、言葉だけでなく行動にも表れます。

  • 雨上がりの練習後、泥だらけのスパイクのまま平気でシートに足を上げる。
  • お菓子のゴミをドアポケットに突っ込んで帰る。
  • 集合時間に平気で遅れてくる。

「子供だから仕方ない」?
いいえ、違います。これは親の責任です。

「人の車に乗る時は、靴の泥を落としなさい」
「降りる時は、必ず運転手さんの目を見てお礼を言いなさい」
「汚したら自分で拭きなさい」

それを家庭で教えていないことが、ありありと透けて見えるのです。
私の車が汚れること自体が嫌なのではありません。
「他人の車を汚したら申し訳ない」という想像力の欠如、そしてそれを正さない親の姿勢に、絶望にも似た感情を抱いたのです。

親の欺瞞(ぎまん)。「お世話になります」の一言さえあれば、ルールなんてなくても回る現実

結局のところ、車出しや当番のトラブルの9割は、この「礼儀と感謝の欠如」に起因していると私は確信しています。

もし、乗せてもらう側の親が、
「いつも本当にありがとうございます。おかげで息子が野球を続けられます」
と心からの感謝を伝え、時に缶コーヒーの1本でも差し入れし、子供にも厳しくマナーを指導していたらどうでしょう?

車を出す側は、「いいよいいよ、どうせ行くついでだから」と気持ちよくハンドルを握れるはずです。
ルールで「Aさんは月2回、Bさんは月2回」とガチガチに決めなくても、
「できる人がやる。できない人は感謝してお願いする」
このシンプルなサイクルで回るはずなんです。

それができないのは、親の側に「欺瞞(ぎまん)」があるからです。
「忙しいから仕方ない」「お互い様でしょ」と、感謝を省略して甘えを正当化する心。
それこそが、里田まいさんが指摘した「誰かだけが頑張るのは違う」という状況を生み出している真犯人ではないでしょうか。

SNSで愚痴り、メディアで晒す。その姿を子供は黙って見ている

最近では、こうした不満をSNSに書き込んだり、メディアの取材で「少年野球の闇」として告発したりするケースも増えています。
気持ちはわかります。吐き出したい時もあるでしょう。

でも、私はあえて言いたい。
「それは、とても恥ずかしいことだ」と。

陰口と不平不満のオンパレード。大人が楽しんでいない野球を、子供が楽しめるはずがない

SNSで「また車出しだ、最悪」「あの親、また来てない」と愚痴を垂れ流す。
グラウンドの端で集まって、来ない親の陰口を叩く。

その姿を、子供たちは見ていないと思いますか?
子供は、親の背中を驚くほどよく見ています。
スマホの画面を覗き込んでいます。

「僕の野球のせいで、パパとママが怒ってる」
「野球って、大人をイライラさせるものなんだ」

そう刷り込まれた子供が、野球を好きでい続けられるはずがありません。
大人が楽しんでいないことを、子供が楽しめるわけがないのです。
スポーツ庁が掲げる「スポーツを通じた人間形成」という理念からも、親のこの態度は大きく外れています。
スポーツ庁 / 運動部活動の在り方やスポーツ団体のガバナンスコードを参照。大人の振る舞いが子供に与える影響についての記述を裏付けとする。

「できない時はお願いする」がなぜ言えない? 見栄とプライドが招く自縄自縛

「車が出せない」こと自体は、悪いことではありません。
家庭の事情、仕事の事情、車のサイズ、運転技術。それぞれ事情があります。
ユーザー様がインプットしてくださったように、
「できないときはお願いする。できるときはやる」
これでいいはずなんです。

でも、多くの人がこれができません。
なぜか? 変なプライドと見栄が邪魔をするからです。

「できないと言うと、肩身が狭い」
「頭を下げるのが癪(しゃく)だ」

そうやって素直にお願いできず、無理をして参加して不満を溜めるか、逆ギレのように「当番なんて時代遅れだ!」と制度批判に走る。
自縄自縛(じじょうじばく)です。
素直に「すみません、今月はどうしても都合がつかないので、お願いできますか? その代わり、来月は審判やります」と言えば済む話なのに。

私が息子に口を酸っぱくして教えた「乗せてもらう時」の鉄の掟とマナー

我が家でも、どうしても私が車を出せず、他の親御さんにお願いする時がありました。
その時、私は息子に「鉄の掟」を課しました。

  1. 乗る時は「お願いします」、降りる時は「ありがとうございました」を、運転手の目を見て大きな声で言うこと。
  2. 靴の泥は完全に落としてから乗ること。
  3. 車内でお菓子は絶対に食べないこと。
  4. 自分の荷物は自分で積み下ろしすること(親任せにしない)。
  5. 降りた後、車が見えなくなるまで頭を下げること。

「これを守れないなら、もう野球は辞めさせる。二度と人の車には乗せない」
それくらい厳しく言い聞かせました。
これは野球の技術よりも大切な、「人としての基本」だからです。

この教育を徹底したおかげか、息子は他の親御さんから「〇〇君は乗せていて気持ちがいい」「挨拶がしっかりしている」と褒めてもらえるようになりました。
そうなると、不思議なもので「また乗せてあげるよ」と言ってもらえるようになるのです。
感謝は、循環します。

未経験パパだからこそ伝えたい。車出しは単なる送迎ではなく「動く社会科教室」だ

私は野球未経験パパとして、技術的なことは何も教えられませんでした。
でも、この「車出し」という経験を通じて、息子に教えられたことはたくさんあります。

車内での会話は宝物。技術指導はできなくても「人としての振る舞い」は教えられる

車出しは、単なる移動手段(ロジスティクス)ではありません。
それは「動く社会科教室」です。

他人の家の車に乗る時のマナー。
運転してくれる人への気遣い。
公共の場(車内)での振る舞い。

これらは、学校の授業では習いません。
親の背中を見て、実体験を通じて学ぶものです。
私が他の子供たちを乗せる時も、マナーが悪い子がいたら(よその子でも)叱りました。
「運転してるおじさんは、君たちのタクシー運転手じゃないんだよ」と。

野球の技術はコーチに任せればいい。でも、こういう「社会性」や「感謝の心」を教えるのは、私たち親の役目です。
未経験パパでも、いや、未経験パパだからこそ、野球の勝ち負け以外の部分で、子供たちに伝えられることがあるはずです。

感謝の連鎖を作る。自分ができる時は全力でやり、できない時は素直に頭を下げる潔さ

里田まいさんの発言をきっかけに、「当番を減らそう」「業者に頼もう」という議論が進むのは良いことです。
しかし、どんなにシステムを変えても、そこにいる「人の心」が変わらなければ、別の形でトラブルは起きます。

システムに頼る前に、まず私たちができること。
それは、「感謝の連鎖」を作ることです。

  • 自分が車を出す時は、見返りを求めず、子供たちの成長を楽しむ。
  • 自分がお願いする時は、最大の感謝と礼儀を尽くす。
  • そして、その姿を子供に見せる。

もし、あなたのチームがギスギスしているなら、まずはあなたから始めてみませんか?
乗せてもらった時に、缶コーヒー一本とお礼の手紙を渡してみる。
「いつもありがとう」と口に出して伝えてみる。

そんな小さなアクションが、頑ななルールよりも強く、チームの空気を変えることがあります。

制度改革よりも「意識改革」。トラブルゼロのチームが持っている「お互い様」の空気感

本当に良いチーム、トラブルのないチームというのは、当番表が完璧なチームではありません。
「お互い様」の精神が浸透しているチームです。

「今日は私がやるよ」
「助かる! 今度私が代わるね」
「いつもありがとうね」

そんな会話が自然に交わされるチームでは、誰も「当番がつらい」とは言いません。
それは「義務」ではなく、「仲間への貢献」だからです。
里田まいさんが求めていたのも、本当はこういう「自律した大人の関係性」だったのではないでしょうか。

当番の負担よりも得られる感謝と成長の方が重いことを示す天秤のイラスト(生成AIによるイメージ)
損得で考えれば「負担」だが、未来への投資と考えれば「価値」になる(生成AIによるイメージ)

まとめ:当番を「損」と捉えるか、「投資」と捉えるか。親の背中が子供の未来を作る

長くなりましたが、私の結論はこうです。

少年野球の車出しや当番は、確かに時間と労力を使います。
それを「損(コスト)」と捉えれば、不満しか生まれません。
しかし、それを子供の成長を見守り、礼儀を教え、親同士の信頼関係を築くための「投資」と捉えれば、これほどリターンの大きい活動はありません。

里田まいさんのニュースを見て、「そうだそうだ!当番なんてなくせ!」と叫ぶ前に、一度立ち止まって考えてみてください。

あなたは、子供にどんな背中を見せたいですか?

損得勘定で文句を言う親の背中か。
それとも、仲間と助け合い、感謝を忘れない親の背中か。

野球の試合に出られるかどうかよりも、ホームランを打てるかどうかよりも、
もっと大切なことが、そこにはあるような気がしてなりません。

私の息子はもう少年野球を卒業しましたが、今でも誰かの車に乗せてもらう時は、必ず深々と頭を下げてお礼を言います。
その姿を見た時、私は心から思うのです。
「ああ、あの時、泥だらけの車内で口を酸っぱくして怒鳴り続けたことは、無駄じゃなかったんだな」と。

未経験パパの皆さん。
技術は教えられなくても、教えられることは山ほどあります。
自信を持って、あなたなりの「応援」を楽しんでください。
車出しの運転席は、親子の絆を育む、最高の特等席なのですから。